
その父親と少年はただ黙々と歩き、南を目指して旅をしていた。空は日に日に濃くなる灰色に覆われ、あらゆるものが朽ち果てた地上には生き物がまったく見あたらない。夜は恐ろしいほどの暗黒の闇に支配され、時折凄まじい地鳴りが沸き起こる。ふたりが南に向かっているのは、極度の寒冷化のせいでこのままでは冬を越せそうもないからだ。ショッピングカートを引きながら荒廃した風景の中をとぼとぼと進む彼らの全財産は、防水シート、ポリ袋、毛布、双眼鏡、そして拳銃だった。文明が崩壊して10年以上経ったこの世界では、わずかな生存者の誰もが燃料と食料を探し求めている。しかし道すがら民家を探索しても、食べ物は滅多に見つからない。
そんなある日、道ばたの車中で寝ていた父親は何かが迫りくる気配を感じとり、少年とともに林の中に身を隠す。トラックに乗ったならず者の武装グループだった。林に入ってきた若い男に見つかってしまった父親は、拳銃で相手を威嚇する。若い男は一瞬の隙を突いて少年の首もとにナイフを突きつけるが、父親が放った銃弾を浴びて即死。父親は返り血を浴びて放心状態の少年を抱きかかえて走り、一味の執拗な追跡を振りきった。飢えを凌ぐために蛮行を繰り返すならず者たちは、この世で最もおぞましい人食い集団なのだ。
「あの男は“善き者”ではなかった。悪者には気をつけないといけない。俺たちは“火”を運んでいるのだから」 「“火”って何のこと?」 「心に宿る“火”だよ」 「僕たちはこれからもずっと善き者?」 「ああ、ずっとそうだ」
餓死するか、自殺するか、または道徳と理性を失ったならず者たちの餌食になるか。この非情な世界を生き抜くために、父親は少年にありとあらゆる大切なことを伝えようとしていた。父親にとって、少年はすべての心のよりどころだった。
父親は眠りに落ちるたびに、少年の母親がまだ生きていた在りし日の夢を見る。かつて彼らは、何が起こったのかもわからぬまま世界の終焉の日を迎えた。重い心の病を患っていた彼女は、自宅で少年を産んだのち、しばらくして暗闇の彼方に消え、自ら命を絶ったのだ。夢から覚め、はかない思い出に涙があふれた父親は、過去と決別するために彼女の写真と結婚指輪を捨てるのだった。
あまりの寒さと飢餓感に挫けてしまいそうな旅の中にも、ほっと心のなごむ瞬間があった。スーパーマーケットで見つけた缶コーラを飲んだ少年は、生まれて初めて口にした炭酸の泡を不思議がりながら「おいしい」と言った。滝で水浴びをしたときは、初めて見た虹をきれいだと思った。ならず者集団の“貯蔵庫”がある家に忍び込んだときには命が縮む思いを味わったが、少年は健気に父親の教えを反復した。
「僕らはどんなにお腹が空いても人を食べないよね? 僕たちは善き者だから。“火”を運んでいるから」 「そうだよ」
ふたりはとある民家の庭で、地下シェルターの入り口を発見した。そのちっぽけな空間には、ふたりでは食べきれないほどの豆やフルーツの缶詰、お菓子、飲み物が蓄えられていた。少年は「これ、全部もらっていいの? お礼を言わなくちゃ」と言って、どこの誰かもわからない贈り主に感謝の祈りを捧げた。ふたりは体を洗い、髪の毛を切り、ろうそくの灯りのもとでの豪華なディナーで思う存分、空腹を満たした。
しかし幸せな時間は長く続かなかった。シェルターの外でうろつく何者かの気配を察知した父親は、嫌がる少年をなだめ、持てる限りの食料をカートに積んで再び旅に出る。
ふたりは杖をついて歩いている弱々しい老人に出くわした。「食べ物を分けてあげようよ」と言う少年に根負けした父親は、しぶしぶ老人を夕食に誘う。イーライと名乗るその老人は目が悪かったが、少年を見て天使が現れたのかと思った。その一方で「悪者には気をつけろ」と教えられていた少年は、なぜ父親がきっと善い者に違いない老人に冷たい態度をとるのか理解できなかった。
なおも歩き続けるふたりは丘を越え、ついに浜辺にたどり着く。海は青いものだと思っていた少年は、見渡す限り寒々とした灰色の光景にがっかりした。そして夜になると、ひどい熱を出して嘔吐した。 「聞いていい? 僕が死んだらどうする?」 「お前が死んだら…、パパも死ぬだろうな」 「一緒にいられるように?」 「そう。一緒にいられるように」
父と子は世界の終わりを旅する。人類最後の火を掲げ、絶望の道をひたすら南へ―。


